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TP0−日本語の辞書を引いてみると、時(time)・所(place)・場合(occasion)に応じて使い分けること、と出ている。だが、TPOは英語の辞書には載っていない。この言葉は、日本で生まれたからだ。生みの親は、石津謙介。時間と、場所と、場合に合わせて着る服を選ぶ。いまでは当たり前といっていい、服装に対するこんな考え方を、戦後の日本の若者に初めて〃教えた〃のが石津だった。「僕はモノを売ろうとしたんじゃないんですよ。僕がやろうとしたことは、日本人にライフスタイルを提案することだった」石津はいう。そのライフスタイルが、アメリカ東部の名門8大学(アイ ビー・リーグ)で培われた〃アイビー〃と呼ばれる精神だった。そして、アイビーをファッションとして日本に定着させたのが『VAN』というブランドであった。 60年代、アイビーは社会現象にまでなる。銀座の街角は、アイビー・ルックに身を包んだ若者であふれた。〃みゆき族〃と呼ばれた彼らは、それが決まりごとであるか のようにVANの袋を抱えていた。当時、石津の秘書をしていた林田武慶氏(現パート フォー代表)はこう振り返る。 「VANのロゴが入った紙袋にプレミアがついて売り買いされていましたからね。あの頃の学生には、着るものといえば学生服しか知らない人も多かったんですが、その人達に「お洒落」と言う楽しみをVANは与えたんです。あの時代の若者が着ていた学生 服を、石津さんが脱がせたと言っても言い過ぎではないでしょうね」 60〜70年代、VANを生んだファッションデザイナー・石津謙介は、〃メンズファッションの神様〃と呼ばれた。その圧倒的な影響力は、業界でも他者の追随を許さなかった。林田氏はいう。 「石津謙介以来、いまだに業界では紳士服を引っ張るデザイナーが出ていない。そのこと自体、石津さんの存在感の大きさを物語っていますよね。たしか、デザイナーの三宅一生さんも、本当は紳士服をやりたかったんだそうですが……」国内での紳士服のデザインを断念する、そんな若手デザイナーが当時は大勢いた。日本には石津謙介がいるからという理由で。 流行というより時代そのもの 〃石津商店〃。これがVANの始まりだった。51年に石津が大阪で働いていた小さな洋品店。 その4年後、石津は束京に進出。社名も『株式会社ヴァンヂャケット』とし、日本の 市場に〃アメリカの匂い〃を持ち込んだ。 最初に考えた「アメリカ」それはTシャツだったと石津は話す。 「日本に駐留していたアメリカ兵が、街で遊ぶときの服装がジーパンにTシャツだった。労働のときもTシ ャツは着るけれど、それにはポケットがないんです。けれども、外出用のTシャツに は胸にポケットが付いている。それが彼らの服装のルール、つまりTPOということなんです。僕は、このTシャツが日本の若者のお洒落着になるだろうと思ったんだ」戦後、日本人が〃スプリング(春モノ)〃と呼んでいた半袖シャツを、最初に〃Tシャツ〃 と呼ばせたのが石津だった。Tシャツだけではない。スウエットシャツを〃トレーナー〃と命名したのも、ジャンパーに〃スウィング・トップ〃とい名前を与えたのも石津である。石津には〃ネーミングの神様〃という異名もあった。石津がVANを通じて日本に定着させた言葉は数知れない。トラッド、カジュアル、へビー・デュティー、スタジャン、 スケボー、デッキチェア…。「200や300はくだらないでしょう。調べた人の話では500以上あるそうです」(林田氏)VANの企業戦略から日本に根づいた言葉も少なくない 。キャンペーン(組織的な宣伝活動)や、プレミアム(賞品)といった言葉を最初に使ったのもVANだった。VANはファッションメーカーであると同時に、時代の開拓者でもあった。流通システムの中で、問屋を相手にするという従来のメーカーの姿勢を拒否し、客となる若い世代にVANの精神を直接訴えかけた。 「僕は消えていく〃流行〃ではなく、日本に定着する〃風俗〃をつくろうとしていたんだ。そのためには店で商品を売るだけではダメだと思った。そこで僕がやったことは、ジヤーナリズムをベースにすることだった」雑誌『男の服飾』(『メンズクラブ 』の前身)の創刊に石津は携わる。芸能人をモデルに使い、石津自身も6つのペンネ ームを駆使して若者にアイビーをアピールした。この革命的な戦略が当たった。若者にとってVANは、お洒落の教科書になった。そして、商品は売れまくった。67年にVANに入社した宮川烈氏は、こう話す。「販売店に商品を持っていくと、『お金が来た』 と言われましたからね。店に置けばすぐに売れてお金に変わる。VANはそういう商品でした」VANを着るだけでは満足できなくなった者は、VAN本社を目指した。「給料はいらないから働かせてくれという人が大勢いましたよ」(林田氏)64年にVANの本社が移転してきた港区北青山の一帯には、VAN関連の施設が次々に誕生した。そこに、V ANの信者が連日のように群がった。70年代に入ると、青山は〃VANの街〃とさえ呼ばれるようになった。石津個人の人気も絶頂に達していた。テレビや雑誌は石津をスタ ー扱いし、各地でファンクラブまでできた。石津のスケジユールは毎日マスコミの仕事で埋まった。「石津先生の動向は、社員でさえテレビや雑誌から情報を得ていましたね」(宮川氏)。石津は、自分の城であるVANの内部でも雲の上の存在になっていた。石津の仕事は、デザイナーの域もVAN社長の域もはるかに超えていた。ある意味で、石津自身がファッション界そのものだった。石津がまさに〃神様〃として君臨し た時期-。 だが、その時代を石津はこう振り返った。「あのまま続いていたら、いまごろ僕はもう死んでいるよ」 |
企画部長からバラック小屋へ 1911年、岡山の紙問屋に石津は生まれた。〃メンズファッションの神様〃の片鱗は、すでに少年時代から見て取れる。小学校時代石津は「転校したい」と言い出した。 家から歩いて40分もかかる師範付属小学校。そこに行きたいと、石津少年は母親に懇願した。 「当時、小学生は着物で通学していたんですよ。でも、付属小学校には金ボタンの制服があった。それがうらやましくてね。それだけの理由で学校を変えてくれと…。そ の頃から、着るものに対する関心は持ち始めていたんだろうね」3年生のときに転校 。石津少年は念願の制服を着る。が、服装への興味は、制服を着るだけで満足できるようなものではなかった。中学に進むと、制服を洋服屋に持ち込み、丈を短くして襟元のカラーを低くつめた。下半身と首を長く見せるための工夫−メンズファッション の神様が、最初に手掛けたデザインだった。大学生になると、石津の遊び心はそれまで以上に発揮された。入学した明治大学では、まずオートバイ部をつくる。オートバイに飽きてくると、今度は自動車部をつくった。それでも物足りなくなると、石津は航空部をつくって、立川の基地で飛行機の操縦訓練を受けた。ファッションセンスにも磨きがかけられていた。外国のファッション誌を取り奇せ、西洋の服飾に関する知識を収集する。そして、自らも舶来のホンモノを身につける。石津の知識を頼って、 三越の店員が教えを乞いに来ることもしばしばあったという。石津を〃プレイボーイの元祖〃と呼ぶ人もいる。石津自身、「プレイボーイの自覚はあった」と話す。だが、こうもいう。 「プレイボーイに必要なことはね、ダンディズムなんです。日本にも〃 粋〃というのがあるでしょ?あれですよ、本当に紳士的に振る舞うにはスピリットがなければダメなんです。軟派な連中とは違うんですよ」そんな哲学とも共通する価値観に、石津は出会う。それが〃アイビー精神〃だった。大学卒業後、石津は岡山の紙問屋を継ぐことになる。が、戦時統制下で紙が配給扱いとなり家業はままならなくなる。そこで石津は、衣料メーカーの友人の誘いを受けて中国に渡る。中国では外国人との交流も多く、英語、中国語、ロシア語が話せるようになった。その語学力のおかげで、終戦後にアメリカ憲兵隊の通訳という仕事が転がり込む。その間に出会った人物、アイビーリーグ( プリンストン大学)出身のオブライエン中尉が、石津にアイビーを教えた。 「たとえば、ネクタイの柄に斜めのストライプがあるでしょ?あれはイギリスの伝統的なデザインで、アイビーのアイテムでもあるけれど、決定的な違いが1つあるんです。前から見て、イギリス流はストライプが左下に流れるけれど、ア メリカ流は右下に流れる。これはね、『イギリスには敬意を表するけれど、オレたちはイギリス人の末裔じじゃないよ。新しい世界をつくる人種なんだ』というアメリカ人の哲学なんですよ。大統領だって、普段はアメリカ縞を愛用していても、イギリスを訪間するときはちゃんとイギリス縞のネクタイを締める。こういった服装のルールの基礎教育を僕はオブライエンから受けたんです」 戦争が終わり、日本人も洋服を好むようになるはずだ。アイビーの精神は日本でも受け入れられる−石津は、そう直感した。中国から帰国した石津は、48年にレナウンに入社。大阪の支社で企画部長を務めるが、「組織の歯車になって働くのが性に合わなかった」(石津)という理由で退社。「退職金はいらない。場所が欲しいんだ」こういって石津は一軒のバラックを得た。場所は大阪・御堂筋につながる路地の一角。 そこに石津商店はできた。VANが生まれた街、いまは「アメリカ村」と呼ばれている。 VAN−ネーミングの神様は、この名前にどんな意味を込めたのか。 「ヴァン・ホーテンというチョコレートがあるでしょう?オランダ語でVANというのは、代表的な男子の名前なの。日本の〃太郎〃みたいなもの。語呂がいいし讐きもいいから、一度聞いたら忘れられない。それに英語のVANにはVanguadの意味もあるしね」「Vanguad」 には「前衛」「先導者」といった意味がある。現実に、VANはメンズファッションの 先導者となって時代を突き進んだ。「正直言って恐ろしかったです、VANのファンの増え方は。まるで宗教みたいでしたし、実際に石津さんは〃アイビー教の教祖〃と呼ばれていましたしね。」(林田氏) VANの経営は拡大路線をひたはしった。インテリア市場への参入。『VANBOYS』、『SCENE』など、新ブランドの投入。73年、日本経済はオイル・ショックに見舞われるが、VANには 関係なかった。 この年VANの街・青山には多目的イベントスペース『VAN99ホール』が完成。VAN は、〃風俗〃から〃文化〃になろうとしていた。会社の売上も急激に伸びていた。73年度の年商は300億円、翌年には450億円を突破。従業員の数も2千450人に膨れ上がる 。しかし、その裏側で、こんな噂が流れ始めていた−。「VANが危ない」 社員にとって石津は雲の上の人になった。これは、別な見方をすれば、石津にとっ て社員は〃雲に隠れて見えない〃存在になってしまったことでもあった。「石津さんは不満を口に出すことは、なさらない人なんですが、カミナリを落とすことがたしかに多くなりましたね。ショップをまわっていて『こんな商品、誰がつくった』と怒り出すこともあったし」(林田氏)店頭には、石津が知らないVANの商品が並ぶようになっていた。 VANには入社試験がなかった。面接だけで社員をどんどん採用。能力給が導入され、職場に年功序列は一切なかった。そんな自由な社風が、VANの一人歩きにつながる。デザイナーとしては神様だった石津も、経営者としては〃素人〃だった。石津の見えないところで、社員は「VANは売れる」という神話の元に商品を企画し、つくりまくった。つくられた商品の量は、売れる量をはるかに上回っていた。VANは、大量の在庫を抱えることとなった。 76年。経営危機に陥ったVANに商社が介入してくる。 目的は経営の建て直し。と同時に、一時代を築いたVANのブランドを手中に収めるという商社の商魂もあった。 「その頃には、僕はもう会社の経営からは離れていた。オ レの仕事は終わったんだと思ってね。僕にはわかっていたから…、ダメになる、と」石津の予想は当たっていた。会社再建の名目で、組織はどんどん管理されていく。 自由な社風は消えた。そして、VANの先導者としての勢いも止まった。さらに、大量の在庫は〃商社の理屈〃で処理された−バーゲンセールである。 日本全国でVANは安売りされる。かつて、店頭に置けば即座に売れたVANは、3割4割引き、ときにはそれ以下の安値で売りさばかれた。「若者のステイタス」だったVANのイメージは、「バーゲン専用ブランド」に失墜した。 78年4月6日。ヴァンジヤケット倒産。負債500億円は、当時、戦後5番目の大型倒産だ った。 |
「実業家じゃない虚業家だよ」VANの危機、そして倒産は、マスコミでも大きく取り上げられた。当時の記事には、 こんな見出しが踊った−−「ヤングに〃負けた〃ヤング商法」(日本経済新聞)、「経営の〃TPO〃を誤った『V AN』石津謙介の敗戦」(週刊新潮)石津個人を痛烈に批判した記事も出た。顔写真を 載せ、その下に「虚業・演出家石津謙介」と書いた雑誌もあった。VANの成長期には石津をスタ−扱いしていたマスコミの豹変。だが、そのことについて水を向けてみる と、石津は「仕方がないよ」と、サラリとかわした。そして言葉を選ぶようにこう話し始めた。「僕は、実業家じやない、虚業家ですよ。ただ、虚業家というのはホメ言葉だと思っている。実業の〃実〃はモノでしょう?モノをつくって、売って、その差額で食ベていこうなんて、僕は考えたことがない。僕がつくったのはモノじやない、 自分では思想だと思っている。思想なんて、空気みたいなものでしょう?これは虚業ですよ。」 たとえ虚業だったとしても、倒産のダメージは実業と同じだった。石津は無一文になった。自宅は売却が決まる。その家に警官がやってきた。そして、石津にこう告げた一自殺だけはしないでください。 「僕のほうが驚いたよ(笑)。自殺なんて考えもしなかったから。だから、おかしなこと言ってないで飲もうって、その晩は警官と一緒に消えゆく自宅で宴会をやった(笑)」〃石津王国の崩壊〃とまでいわれたVANの倒産に対して石津は、「深刻に悲しんだりしたことは一度もなかった」と話す。 だが、かつての秘書・林田氏は、81年に久しぶりに会った石津の印象をこう話した 。「青山に会社をつくったので、そのあいさつでお訪ねしたんです。倒産後の社屋の真っ暗な部屋で、石津さんは1人で残務処理をしておられた。しょんぽりと…、私にはそう見えた。このままでは体をこわしてしまう、そう思いましてね。それで私の事務所を使っていただくことにしたんです」林田氏に取材したのは、石津に会った次の日だった。「悲しんだりしなかった」と石津は前日に話していた−−そう告げると、 林田氏は笑いながら言った。「やっばりそうですか。グチは言わない、そういう人なんですよ、石津さんは」 「倒産から這いあがった今こそリターンマッチを・・・」 VANの倒産後の仕事−元社員の就職先探しも一段落し、石津は林田氏の事務所の一室を借りて再始動した。その間に、VAN復活に向けた動きもOBの手で着々と進んでいた 。81年12月3日、株式会社ヴァンヂャケットは復活する。前出の宮川氏が、現在のVANの社長である。「VANの再建計画が始まったときに、石津先生に相談したんです。先 生は『やるならやってごらん』と。それで『助けてくれますか?』と間いたら、石津先生は『オレをいくらでも利用してくれていい、ただし、表には出られないよ』と言われた。 再建した当初は石津先生に顧問になっていただきましたが、それが復活したVANにと っての唯一の勲章でした。ただね、石津謙介がいない、いまのVANは、正直言って、仕事はしにくいですよ。(笑)」(宮川氏)VANは甦った。しかし、石津は言う。 「もう、僕の手から離れたものだよ」石津にとって、VANは〃過去〃だった。石津の 〃いま〃は新たな挑戦に向かっていた。デザイナー・石津謙介は、95年、96年と2つの賞を受けた。「毎日フアッション大賞」、そして「日本繊維新聞ニッセン大賞」。 昨年から石津が仕掛けてきた、〃フライデー・カジュアル〃のムーヴメントに対する評価だった。 週休2日制が一般化した今、金曜日はウィークエンド。中年サラリーマンも週末くらいは気楽な格好で…。この新たな概念を日本に根づかせるために、石津はファッショ ン業界全体を立ち上がらせた。そして、〃フライデー・カジュアル〃実現の第一歩に岐阜県庁を選んだ。役所は、もっともファッションには縁遠い職場といえる。そこを切り崩したことが、一般企業に対してもっとも効果的なアピールになった。石津はいう 。 「お洒落は若い人たちだけのものじゃないんだ。これからは、40歳以上の世代が日本のファッションリーダーにならなければいけないと僕は思っている」フライデー・ カジユアルは、ビジネス社会で浸透しつつある。これが「流行」で終わるか、「風俗 」として定着するか−それを決めるのは、40代以降の世代である。この世代には、若い頃にVANからお洒落を学んだ人も多くいる。石津が〃先導者〃となったフライデー・ カジユアルは、VANの倒産からはい上がった神様が仕掛けた〃リターン・マッチ〃なのかもしれない。 青春出版社 BIG TOMORROW 96年9月号掲載 |
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