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VANの時代あれは一年ぐらい前のことだっただろうか、テレビを見ていたら、整理整頓アドパ イザーなる職業の女性が現れ、家庭で無駄に使われている空間の再活用法を伝授すると称して、視聴者の家まで出向いてノウハウを例示してみせていた。その女性はまず 、押し入れの中に積み上げられていたお父さんの本を槍玉にあげ、何年間も開いたことのないこんな本なんかすぐにでも捨ててしまいなさいと、乱暴きわまりないことをさかんに説いていた。お父さんはほとんどの本については廃棄処分に同意したのだが 、中に一冊だけどうしても手放したがらない本があった。それは、VANが倒産したあとに出版された『VANグラフィティー−アイビーが青春だった』という本だった。お父さんがアドバイザー女史の強引さに負けて、あやうく廃棄に同意しそうになった瞬間、私は思わず、ブラウン管に向かって「オイ、捨てるなら俺にくれ」と叫んでしまった。お父さんは私の声が間こえたのか、結局、捨てずに取っておくことにしたようだった。 おそらく、その本には、副題のとおり、お父さんの青春が詰まっていたので、たとえ、場塞ぎになろうとも、捨てるには忍びなかったのだろう。ことほどさように、VANというのは、たんなるひとつのファッション・ブランドであったという以上に、ひとつの「風俗」であり、さらにはひとつの「時代」であったのである。 では、消滅した会社であるにもかかわらず、いまなお、これほどまでに愛着をもたれているVANを創設した石津謙介とはいかなる人物なのだろうか。 学生服がデビュー作 石津謙介は、明治四十四年(1911)、岡山市片瀬町に、「紙石津」と呼ばれた老舗の紙問屋の次男として生まれた。この「紙石津」は大蔵省の印刷局にコウゾ、ミツマタを原料とする高級和紙(いわゆる局紙)を納める豪商だったが、一代目は漢詩、二代目は茶の湯という具合に、どうも代々、本業は番頭任せで、旦那芸に凝るという伝統をもっていたようだ。三代目は婿養子だったので幸い家業はおおいに栄えたが、旦那芸の伝統は母親を経由して、謙介に伝わったらしい。というのも、謙介は「岡山小町」と呼ばれた母の影響で小学生の頃からお洒落に目覚め、以後、金をためることよりも、金を使って生活をエンジョイする方面にのみ精力を傾けるようになるからである。お洒落というものに開眼したのは、小学校二年のときだった。入学したのは公立の清輝小学校で、生徒は着物に袴で通っていたが、ある時岡山師範附属小学校の生徒の詰襟・金ボタンの制服を目にした謙介は、それ以来、どうしてもこの制服が着たくてたまらなくなった。そこで、怒られるのを承知で、師範附属小に転校させてくれないかと母親に頼んだ。すると母親は、自分自身がお洒落だったためか、息子の気持ちをすぐに察して、あっさり、この願いを聞き届けてしまった。石津謙介は自伝で、「ボクは、単に学生服が着たい、という理由だけで、歩いて三十五分くらいかかる岡山師範学校の附属小学校へ転校してしまった。小学校二年生の時である。 今考えて見ると、この時に、ボクの将来、つまりファッション・ビジネスへの道が決 定づけられたような気がする」(「石津謙介オール・カタログ」以下、石津の言葉の引用は断りのない限り、これによる)と語っているが、彼が憧れたのが「社会のエリートのしるしとしての制服」だったという事実は注目されてよい。というのも、石津 謙介の創造したVANのアイビー・ルックというのは、後述のように、学生服がステータス・シンボルでなくなった社会での「エリートの制服」という意味合いをもっていたからである。注目すぺき事実はもうひとつある。それは、謙介少年が、制服を誂えただけでよしとするのでなく、制服という「規範」のなかでの「逸脱」を楽しむため 、独自の趣味をもつ「うるさい顧客」として、テイラーに様々な「注文」を出していたことである。もちろん、最初、その「注文」を出したのは彼自身ではなく母だった 。母は、オーダー・メイドで息子の制服を誂えるとき、「あら、これ、衿が少し高いわね」などとテイラーにあれこれ指示を出し、制服ばかりか、靴覆い(スパッツ)も 特別にオーダーした。 こうした母の態度はすぐに息子に伝わった。謙介少年は、皆と同じ黒革の短靴をはくのをいやがり、エナメルの靴が欲しいといいだしたからだ。だが、この時代に子供用のエナメルの靴などあろうはずはない。にもかかわらず少年はあきらめず岡山じゅうを捜し回った。 「やっと見つけたのがエナメル仕上げのゴム靴。早速オフクロにねだって買ってもらったという訳だ。小学校二年生で、この執念、これは今考えてもただごとではない。(……)普通なら、子供というものは、人と違うスタイルをするのが恥かしいものらしいが、ボクの場合は、全然平気。ときには、同級生や、上級生から何かいわれることもあったが、ボクはまったく気にならなかった」 こうしたお洒落は、岡山のエリート中学、旧制岡山一中(現在の岡山朝日高校)に入学すると、さらにエスカレートした。自分で制服を改造してしまったのである。生地と基本的デザインは学校の指定があるので、変えたのは細部である。まず、上着の丈を短くした。こうすると、足が長くみえると思ったからである。ズボンもヒップ・ ポケットを閉じ、裾幅は広くしてセーラー型にして、折り返しはなしにした。上着はさらに、カラーをできるだけ低くして、首が長く見えるように工夫し、下には、いわゆる軍隊シャツではない、ワイシャツを着た。しかも、上着の袖口を広めにつくってワイシャツのカフスが二センチぐらいのぞくようにしておいた。これだけでも、信じられないほどの凝りようだが、そのうえに彼は当時の学生服ではだれも思い付かなかったような画期的なデザインを考え出した。ズボンのサイドにアジャスト・ベルトをつけて、ベルトレスにしてしまったのである。 「ポクは、この改造を学校の規則の範囲の中で考えに考えた訳だ。考えてみれば、この中学校の制服が、デザイナー、石津謙介の作品第一号、ということになる」この挿話で重要なことは、たんに石津謙介が子供のときからお洒落だったという事実だけではない。すなわち、ここから汲み取るべき真の意味は、この少年がたんに「規範の中の逸脱」というお洒落の本質をすでに十分理解していたという事実だけではなく、そ れを実現するために、「客」として、それらを「作らせる」ことのほうへむしろ情熱を傾けていたことである。つまり、みずからクチユリエ(仕立屋)となるのではなく 、あくまで、自分の着たいものを作らせるカスタマー(お客)として、その独自性を発揮したことである。この事実は、ささいなことのように見えてじつはきわめて重要 である。というのも、石津謙介は、いくらお洒落でも、オリジナリティーで勝負する オート・クチュールやプレタ・ポルテのデザイナ−になりたいと思ったことは決してないからだ。VANというのは、こんな服が着たいという気持ちが人一倍強かったカスタマーが偶然のきっかけでアトリエに回って作ってしまったブランドなのであり、けっしてデザイナーの止むに止まれぬ創造性が生み出したブランドではないのだ。だが 、その偶然は、石津謙介の場合、一連の運命の連鎖によって長い間にゆっくりと用意されたものにすぎず、むしろ、必然と呼んだほうがいい。 ダンスからグライダーまで、 遊び暮らした大学時代 最初の運命の変転は、慶応大学に進んでいた四つ年上の兄が家業を継がないと宣言したことに始まる。この兄、石津良介は、慶応の経済を出て松竹キネマに入り、のちに写真家として一家を成すことになるが、夏休みに帰省したとき「田舎に帰って紙屋なんかやらない」と爆弾宣言をしたのである。その結果、跡継ぎは当然、謙介ということになってしまった。父親は、中学だけでやめて家業を継げといったが、母親のとりなしで、なんとか上級学校には行かれることになった。だが、それには、六年制の大学ではなく、当時専門部と呼ばれていた三年制の短期大学にすること、卒業後は必ず家に戻り、家業の紙問屋を継ぐことという条件がついていて、誓約書まで書かされた。 「ボクにとって大学へ行く、ということは、学歴をつけるためでも、専門知識を得るために勉強する、といった目的などもまったくなくて、ただ家業を継ぐ、という契約をしたために、それと引き換えにもらった、三年間のフリー・タイム、ということでしかなかった。で、それはつまり、三年間、東京でミッチリ遊び暮らす、という意味なのである」大学は、スポーツが盛んという理由で明治大学に決めた。中学のときから、スポーツは大好きで、野球部に所属していたほかに、夏は水泳、冬はスキーとなんでもこなしていたからだ。それに、明治の専門部は運動部の選手が多いので、どんなに成績が悪くても落第させないという利点があった。 ところで、一口に「三年間、東京でミッチリ遊び暮らす」といっても、よく考えてみれば、これはこれでけっこう大変なことである。仕送りは三十五円(現在で約二十五万)もあったから、こちらの心配はまったくないにしても、その頃は遊ぶといっても「飲む、打つ、買う」という古典的な意味での「遊び」以外は存在していなかった 。つまり西欧的な意味での「遊び」はほとんど未開拓な時代だったので、まず自分のほうから積極的に遊ぶという意志をもち、あらかじめ「遊び」に対するはっきりとしたポリシーを立てておかないと、三年間は持たなかったはずなのである。つまり、求道的でストイックであるほうがむしろたやすい時代だった昭和の初めに、なんの後ろめたさも持たずに「ミッチリ遊び碁らす」のはだれにでもできる相談ではなかったということである。 しかし、石津謙介にとっては、そんな心配は無用だった。彼の頭には、遊びの計画がぎっしりとつまっていた。それでも、一年目は結構まじめに授業にも出席していた が、東京の碁らしになれるに従い、学校のほうには試験のとき以外にはいかなくなった。その代わり、街の「遊びの学校」には精勤した。 まず手初めにしたことは、兄の友人の慶応ボーイが贔屓にしている三田の洋品店で 背広を誂えることである。 「生まれて初めて作った背広は、三つ揃いの英国型。マテリアルは生意気にもグリー ニッシュなスコッチの手織りツイード。当時のお金で五十五円。(…)ネクタイとなると、これは今でもそうだがクラプ・タイ・オンリー。丸善や三省堂で英国製のものをセレクトしていた。レイン・コートはへヴィなへリンボーン・ツイードのものを着ていたなあ」帽子は、昭和初期の映画スター中野英治がかぶっていた大甲パナマを、 銀座の帽子店大徳寺で十五円も出して買った。へア・スタイルは真ん中からわけるセンター・パート。美男俳優で有名だった岡田時彦ばりに舶来の最高級ポマードをベッタリ塗って決めた。 |
ようするに、昭和初期のモボの中でも一頭地を抜くダンディーだったわけだが、いわゆる「遊び」つまり、女遊びのほうも、それにふさわしい場所でなければと、横浜 は本牧のチャプ屋に通った。チャブ屋というのは、戦前のフランス映画に出てくるメゾン・クローズ(高級娼館)のようなもので、外国の船員相手だったが、日本人でも 、店のほうで資格ありと認めた客だけは入れてくれた。石津謙介はもちろんその一人で、中野英治や岡田時彦も常連だった。チャプ屋のほかにはダンス・ホールへも精勤した。ダンス・ホールには、背広ではなく学生服で通った。そのほうがもてたからだ 。十枚綴りのチケットを買って、一曲踊るたびにこれをダンサーに渡すシステムになっていたが、彼はチケットなど一枚も買わなかった。ダンサーたちが彼からはチケットを受け取らずただで踊ってくれたからである。というのも、ダンサーたちとは店が 終ってから遊ぶつもりだったので、ダンス・ホールでは金は使えなかったというわけだ。しかし、いくら遊び人だったからといっても、いつもこんなふうに夜の遊びばかりに熱中していたわけではなく、明大に入った本来の目的であるスポーツのほうでも 、スケジュールの一杯つまった忙しい日々を送っていた。ローラー・スケートは中学のときから得意だった。乗馬もやってみた。水上スキーも試みた。新しいスポーツな ら、ひととおり試してみたかったのである。なかでも打ち込んだのが、オートバイだ った。まだ日本製はなかったので、アメリカ製のインディアンを、貸しオートパイ屋で借り、これに女の子を乗せて日光や伊豆にツーリングに出掛けた。同好の士と明大オートバイ・クラブも組織した。このクラプはやがて、明大自動車部へと発展解消し 、日本一周キャラヴァンへの参加を目指したが、そのうちにどうしても自分の車が欲しくなったので、中古のフォードのオープン・カーを五十円で手に入れ、これで個人タクシーをやって資金を稼いだ。しかし、この車も路上駐車しているときに盗まれてしまったため、今度は飛行機の操縦を習い始めたがこれは金がかかりすぎて断念した。このように、昭和四年から七年まで「三年問、東京でミッチリ遊び暮らす」という当初の目的を「完遂」した彼は、誓約書に従って岡山に帰り、二十二歳で紙問屋の跡を継いだ。そして、それと同時に、同郷で一つ年下の笠井昌子と華燭の典をあげた。 といっても、親の勧める相手と結婚したわけではない。 「カミさんとボクとは、ボクが中学生、カミさんが女学校の頃からの知り合いだったのだ。なにしろ、こちらは札付きの不良少年、あちらも不良少女で、街でも目立つ存在だったから、よくグループで遊んでいた。二年生の夏、ポクはカミさんに東京へ出て来いよってそそのかした。彼女も行きたいってことで話はまとまって、そのままかけおちをしてしまった」 ようするに、同郷のモボとモガのカップルがめでたく結婚にゴールインしたというわけである。しかしながら、結婚して石津謙介の遊び心がおさまったかといえば、話はまったく逆で、今度は若旦那になって金を自由につかえる身分になった分、遊びにも拍車がかかった。すなわち、岡山で電車会社をやっていた叔父の影響で芸者遊びを始めるいっぽう、スポーツのほうも、東京で果たせなかった大空への夢を実現すべく、 グライダーの製作と運転練習を始め、日本で六十一番目の免許を取ったが、この免許がのちに役にたち、スポーツ用品メーカーの美津濃が製作を始めたグライダーの教官となった。おかげで、外地にわたってからも兵役免除の思恵にあずかることができた。 だが、家業のほうは、昭和十二年に日華事変が勃発して紙の統制が厳しくなるにつれ、開店休業の状態に追い込まれてしまった。そんなとき、友人の大川照雄から、中国の天津で兄の大川正雄が経営している洋品店、大川洋行で一緒に働かないかという誘いを受けたので、思い切って、妻と息子三人を連れて一家で天津に移住することに した。大川洋行は天津の日本租界のど真ん中にあり、物資統制で不振に陥った国内のデパートを尻目に、軍需景気でおおいに栄えていた。ナンバー3の総務部長として入社した石津は、ここで、ようやく天職を見いだすことになる。自分の生きがいだった お洒落の才能を存分に発揮できるファッション・ビジネスに巡り合ったのである。大川洋行は最初、日本の佐々木営業部(のちのレナウン)から仕入れを行っていたが、 戦火が激しくなったので現地調達に切り替えることにした。石津の手腕がおおいに発揮されたのはこのときからである。 「大川洋行を発展させたのは、ひとえに大川さんとボクとのコンビネーションだった 。大川さんが内部をまとめ、ポクが外部、外国人関係の仕事に力を注いだ。外国人との工場を作ったり、紳士服だけでなく、婦人服、子供服、靴、鞄にいたるまで、全部自分でやった」後のVANの基礎はこの大川洋行で築かれたといっていい。お洒落のことがよくわかったカスタマーにすぎなかった石津は、ここで初めてアトリエの側に回り、イギリス人の洋服の専門家と親しく交際して、貴重な資料や実物に接し、独自の衣装哲学を身につけたのである。身につけたのは、衣料関係の知識ばかりではない。 仕事柄どうしても外国人と付き合わなければならなかったので、英語、中国語、ロシ ア語が必要になったが、これらの外国語はすべて、彼独自の方法で習得した。 「外国語をマスターする一番の早道は、その国の恋人をつくるのが一番とされているので、ボクは早速その忠告に従うことにした」スキンシップによるこの語学学習は、 やがて彼に意外な転機をもたらすことになる。「先生」であるユダヤ人女性の住んでいたドイツ租界で、近いうちに日本は降伏するという情報を得たのである。昭和十八 年のことだった。この年、大川洋行は日本記録といわれる三百六十万円の売上をあげ ていたが、石津は、一晩、大川兄弟と話し合ったあと、翌朝、大川洋行を鐘紡に売って、社員ともども軍属になることに決めた。石津自身は語学ができるということで海軍武官付きとなり、グリセリン工場の総務部長として終戦を迎えた。 「VAN」ついにアイビーと出会う 昭和二十年十月二十日にアメリカの海兵隊が天津に進駐してきたが、今度もまた語学の才能が役にたち、石津はトラプル解決のための連兵隊所属となった。ここで一緒になったアメリカ軍のオブライエン中尉との出会いが、石津謙介とアイビーとの出会いとなるのである。 「彼はプリンストン大学出の秀才で、彼の語るアイビー・リーグ の話は、ボクをひどく興奮させた」アメリカ軍の兵営での生活は快適だったが、昭和 二十一年の三月に、輸送船LST(戦車揚陸船)に乗って日本に家族とともに引き揚げ てきたときには、完全に無一文で、おまけに岡山の実家はまったくの焼け野原となっ ていた。兄と相談して、土地をすべて売り払い、その金で食いつなぐことにしたが、 そのうちに、大阪の佐々木営業部からお呼びがかかった。小売部門のパイロット・シ ョップ、有信実業(のちにレナウン・サービス・ステーション)を、社長大川正雄、 副社長大川照雄、という旧大川洋行のスタッフで作るから参加しないかというのである。石津謙介は営業部長として紳士服を担当することになった。婦人服は田中千代( 現東京田中千代服飾専門学枚校長)が受け持っていた。このサービス・ステーション で方向をつかんだレナウンは、ついで神戸に同様のパイロット・ショップを開設することになり、石津謙介がすぺてを取り仕切ることになった。 「ボクがファッションに関して、自分のポリシーを思い通りに、存分にやったのはこの時代である。神戸のPX (アメリカ軍隊内の売店)関係の素材を入手して、ありとあらゆるメンズ・ウェアを作った訳だ。それはそれはいいクオリティの商品で、これは絶対今の日本で作れる訳がないと評判をとり、ファッション業界の中でボクは一躍有名人になった」 こうして自信を得た彼は、昭和二十六年、レナウンを円満退社して独立、退職金の代 わりに大阪北炭屋町の社宅を貰いうけて「石津商店」を開いた。VAN発祥の地となったこの場所は、現在、大阪で「アメリカ村」と呼ばれている。開業の時の相棒は、大阪のレナウン・サービス・ステーションのときに一緒だった高木一雄で、ブランドの名は「謙介」と「高木」をあわせて「ケンタッキー」とした。名前のとおり、商品はコットンのワークシャツやジーンズなど非常にアメリカ的で土くさいものを揃えてい た。ケンタッキー・プランドはデザインは斬新、仕立ては申し分ないというわけで、 当然のようにほうぽうでひっばりだこになり、京都の「みどりや」、大阪の「クロワシ」といった有名デパート、小売店がわれ先に買い付けにきた。そこで、石津は同年 、さらなる飛躍を期すべく社名をVANと変更することにした。この素晴らしいネーミ ングは、ある意味でアイビー・ルック躍進の最大の立役者となったわけだが、その由来は兄の友人の写真評論家伊藤逸平が戦後に出版していた大人向けの風刺雑誌のタイトルにあった。彼は借用の許可を得たときの喜びをこう語っている。 「そのときのうれしい気持、といったらとても言葉で表現することはできない。VANという音の響きもいいし、ロゴにしても、いかにも男性的である。それよりも意昧がいい。VAN、というのは”第一線”という意味なのである」いよいよ、戦後の紳士服のファッションを変えたVANの船出である。だが、このときはVANはまだ若者向けではなく、高級紳士服のメーカーだった。いいかえれば、石津謙介は、依然として自分の 一番欲しい服を「客として」アトリエや工場に注文を出していたのである。 「それは結局、私が自分で着ていたものをそっくりそのままコピーするようなかたちでした」(談)この石津ファッションにいち早く共鳴したのが、新劇の俳優たちだっ た。天津時代の米軍兵営で知り合った新劇俳優・信欣三が、大阪で公演があるたびに 俳優座の仲間をつれてVANの店に現れ、服を誂えていったのである。石津は、彼らがVANの動く広告塔としての役割を果すことを期待していたので、出世払いにしていた。 その期待は、昭和二十九年に早くも実現した。「婦人画報」の男性版「男の服飾」 の出版を考えていた婦人画報社の熊井戸立雄が、VANの評判を伝え聞いて、石津に執筆と編集顧問を依頼してきたのだ。この依頼に彼はおおいに興味をそそられた。というのも、ちょうどそのころVANの大きな方向転換を考えていたからである。時代は、 戦後の混乱を抜け出し、大きく変わろうとしていた。なかでも、戦後の民主教育で育った若者たちが社会の大きな構成要因になり、自己主張を始めていた。だが彼らには 、自分たちの存在をアピールすべき服がなかった。中・高等教育の拡大で、学生服はもはやプレステージのしるしではなくなっていた。石津は、レナウンの社長の尾上清からつねづね「お前、いつまでも仕立て屋のおやじじゃ駄目だぞ。レナウンは女ものをやるから、これからは男ものをやれ」と言われていたので、若者向けの服には、ど んなコンセプトがいいかを考えてみた。結論は、彼らが憧れているのは進駐軍のGIファッション、ひろくいえば、豊かな国アメリカのファッションであるということだった。そのとき、石津の頭に天津時代の知り合いオプライエン中尉のことが蘇った。 「 彼はよく、アイビー・リーガーのファッション哲学について話をしてくれた。ボクの頭の中はアイビー・リーガーのことで一杯になり、次第に、もうこれ以外には考えられなくなっていた。流行に左右されることなく、長く着ることのできるもの、そして着る人のプライドとか、プレステージとか、何か着る人に満足を与えてくれるような 、ひとつのファッション体系。アイビー・ファッションはそのすぺてを満たしている 」だが、と、石津は考えた。はたして、こうしたアメリカ式ファッション哲学が日本で受け入れられるだろうか。そこで彼は、もう若者ではなくなっている自分が十代のときに何に憧れていたかを思い出してみた。まず、岡山師範附属小学校の制服に憧れ 、ついで岡山一中の制服を改造した自分のことを。 「なんだ、よく考えてみたら、これと同じ考え方が日本にもあるじゃないか、つまり弊衣破帽。昔の旧制高校の連中の 誇り高い精神と同じじゃないか」ようは、まったくプレステージをすっかり失ってし まった学生服に代わるような、平服であって同時に制服であるような若者のトータル ・ファッションを作り出してやればいいのだ。こう結論を出した石津は、昭和三十年に、組織を株式会社ヴァン・ヂャケットに改めると同時に、大阪の店を支店にして東京に進出することにした。この年、大川照雄がヴァン・デャケットに参加し、大阪支店長となった。ときあたかも、石原慎太郎の「太陽の季節」が一世を風靡し、経済白書でも「もはや戦後ではない」と宣言された年である。学生服を着ない大学生も増えていた。昭和三十一年に、アイビー・ファッションを視察するためアメリカ東海岸に旅した石津は「日本でもアイビーはいける」という確信を得て戻ってきた。翌年、満を持してアイビー・ファッションを「VAN」として発表すると同時に、「男の服飾」 誌上で、具体的な着こなしを木村功、岡田英次、菅原文太などの若手俳優をモデルに使って紹介した。昭和三十四年から、「男の服飾」は誌名を「メンズ・クラプ」と変え、ほとんどヴァン・ヂャケットの機関誌となった。かの有名なTPO (Time Place Occasion)のファッション哲学が開陳されたのもこの頃である。ヴァ ン・ヂャケットのクリエィティヴィティはますます昇り調子になり、会社は、石津謙介にとってばかりでなく、従業員にとっても「自分のしたいことをする」最高の遊び場となった。社員は、日曜に家にいると退屈するので会社に出てきた。くろすとしゆきをはじめとする有能なデザイナーが次々に入社した。石津は社員に働けとは一言もいわず、もっと新しい遊びを覚えろと激励した。若いときの自分に比ぺて、社員が遊びを知らなすぎると思ったのである。会社に運動部を作ろうという話が出たとき、石津は、日本にないものをと、ゴーカート部とシンクロナイズド・スイミング部、それにアメリカン・フットボール部を作らせた。日大との初のライス・ボウルのときは、 ハングライダーを国立競技場に飛ばそうと考え、社員をアメリカに買付けに派遣した 。 「そのついでに何か面白いものがあったらアメリカから買ってこいよ、と言ったら 、三人いたやつが帰って来ないんですよ。しばらくしたら、ホーバークラフトを買って帰ってきた。これはさすがに面白いと思った。一人は昔使ったウェスタン関係のバーの棚ぱかりを買って帰ってきた。そこで、よしわかった、ウェスタンでいこうというので、北海道に牧場を作ることにした」(談)もちろんタイム・レコーダーなどは なかった。ヴァン・ヂャケットは会社というよりも学校だった。それもとびきり楽しい遊びの学校だった。 アイビー・ファッションの爆発は、団塊の世代の第一陣が高校生になった昭和三十 八年の夏休みに起こった。コットン・パンツにボタン・ダウンの高校生たちが、銀座のみゆき通りにたむろしてマスコミの注目を集めたのである。彼ら全員がVANの紙袋をもち、なかには非行に走るものもいたので、警視庁は石津謙介のところにきて、彼らを邪魔にならないように退散させてくれといった。彼が、「はい、わかりました。 ではそういう連中を集めて話をしましょう。そのかわり集めるのに警視庁の力を貸してください」と伝えると、警視庁は「アイビー大集合」というポスターを二百枚作り 、「みゆき族」にヤマハ・ホールに集まるよう呼びかけた。ポスターの隅に「来会者にはVANの袋を差し上げます」と書いてあったのが成功したのか、二、三百人の予想 のところに二千人がつめかけた。石津謙介はアイビー哲学を語り、「これは一時の流行ではない、いつまでも大切に育てたい、だからあなたたちにあんなことをされては困る」と結んだ。すると、翌日からみゆき通りには、ひとりのアイビー族も姿を見せなくなった。警視庁は驚いて石津に嘱託を依頼した。最近、新しくなった警察官の制服はこの縁がもとで彼の事務所がデザインしたものである。営団地下鉄のあのドゴー ル帽の制服も彼のプロデュースである。 みゆき族は銀座から消えたが、VANのアイビー・ルックは、昭和三十九年に「平凡パンチ」が創刊されたこともあって全国に広まった。それは、もはやファッションではなく、若者であればだれにも抵抗できない「風俗」、新しいタイプの「制服」となったのである。 「私はファッションをつくったのではなく、風俗をつくったのだ」と いう石津語録にはいささかの誇張もない。この年、石津謙介はファッション・エディ ターズ・クラブ賞を受賞し、開催された東京オリンピックで日本選手団のユニフォームのデザインを手掛けた。ヴァン・ヂャケットの売上も、倍々ゲームで増え続け、昭和四十六年にはついに年商が百億円の大台を超えた。だが、それとは裏腹に、 石津謙介の心はすでに、自分の作った会社を離れていた。資本介入した丸紅から役員が送りこまれ、「自分の買いたいものを作る」といったVAN創業時のカスタマー的発想が失われてしまっていたからだ。肥大化した会社はすでに大資本の論理で動く生産 者の発想になっていた。石津は完全にやる気をなくしていた。昭和四十七年、ハート ・シャフナー社との提携交渉のために丸紅幹部とともに渡米した交渉の席上、彼は突然「ヴァン・ヂャケットを買いませんか」と切り出した。一時間後、ハート・シャフ ナー社が売却の意志を確認したとき、丸紅幹部が代わって答えをだした。「発言はなかったことにしてください」 危機はついに昭和五十三年の四月に表面化した。ヴァン・ヂャケットはアパレル史上最大の四百億円の負債を抱えて倒産したのである。勧められた株式上場を拒否したことだけがせめてものなぐさめだった。戦後、無一文で天津から帰国した石津謙介はふたたび無一文となった。だが彼には悲壮感はなかった。 「裸で天津に渡って、裸で帰ってきて、裸で会社を作って潰して、また裸になった。私は人生四毛作といっているんです」(「サライ」) 冒頭で引き合いに出した「VANグラフィティー−アイビーが青春だった」を編集した馬場啓一はあとがきの最後をこう締めくくっている。 「VANのような会社は今後二度と現れないだろう。そしてああいう時代も、もう二度とくるまい。内部にいた人間ならともかく、外部にいて客としてお金を払っていながら、倒産した後もまだそれを一冊の本にしたくなるほど愛着のある会社が、いま一体ほかにあるだろうか」至言である。偉大なるプレイボーイであると同時に遠大なるカスタマーであった石津謙介は、風俗ばかりか、時代と文化をつくり出したのである。 この人からはじまる・鹿島 茂著(新潮社)1995 |
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