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| 石津 謙介氏 | くろす としゆき氏 | |
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自然体だからアイビー 石津さん、くろすさんのご両人は、社会的なムーブメントともいうべきアイビーの仕掛け人といわれています。あの一連の過程を、時代的な背景のなかで後追いしてみると、きわめて意識的で戦略的なものではなかったのかという感じがするのですが、いまその当時を振り返っていただくと、実際はどうだったのでしょうか。 石津 初めからちゃんと計画的にやろうなんて発想は、僕なんかまったくなかったな。やっているうちに、だんだんとああいう一種の社会現象のように大きくなっちゃったということでね。お金もうけのためにやっていたんじゃなくて、面白いからやっていたんだ。社員も皆そういう感じだったんじゃないかな。 くろす そうですね。僕が入社した当時のVANの社風というのは、フアンの集いのようなものでしたね。「給料要らないから、使ってください」というのが大勢集まってきたような時代でした。こうした時代的な雰囲気のなかで、意識的になにかをやったというよりは、むしろ自然現象のように進んでいったという感じですね。 石津 そうだね。あれは自然現象だった。その自然現象が世の中の流れにちゃんと乗っていたというだけだったね。なにかソロバンをはじいたわけじゃない。 くろす 会社ならば存続させるためには、年間これだけ売らなければいけないと、予算が出るはずですよね。僕らは全然そんなもの要求されなかった。好きなもの作れとおっしゃっていただいて。 若者マーケットの創出 くろす アイビーが急成長していったのは、あの当時、若者マーケットがなかったからでしょうね。そのマーケットを僕たちは独自に作り出したということでしょうか。 石津 若者がまだ金をもっていないときだった。 くろす そう、学生は物を買わないといわれてました。でも、実際にやってみたら若者たちが「待ってました」と飛ぴついてきたんですよ。 石津 碓かに、若い人を狙おうという意識はあったね。なんといっても、若い人の着るものがなかったんだ。でもね、僕が大阪で服を作りはじめたときは、「何だこれ、紙の服じやないか」なんて言われたもんだよ。芯地なんかも、それまでの堅いものとちがって、思い切り柔らかいもの使ったからね。僕が最初にこれはいけるなという感触を待ったのは、ズン胴の服だね。あれがだれにでもフィットするという感じがしたんだよ。でも、洋服屋のほうは、「いや、だれにも合わない」と言ってきた。そう言われても、ぼくはその意見は無視しちゃったけどね。まあ、自分が着たいものを作っただけだというのが実感だね。 くろす 確かにそれまでの既製服というのは、重くって、がっちりできていればいるほど、高扱な服だというイメージでしたものね。そこに芯のないぺらぺらの服を出すというのは、やはり革命的なな服作りだったと思いますよ。アイビーというのは、シェイプしないのが逆に良いんだという考え方だったわけですが、それが先生の考え方とマッチしたんですかね。 石津 1954年にアメリカのIACDが発表したシルエットに、アイビーモデルが出たんだな。それで初めてアイビーモデルを見たんだよ。雑誌でだけど。これなら初めて着る人でも苦労しないで着れるだろうと、僕は直感したんだ よ。 「メンクラ」とのタイアップ くろす アメリカからの報告を『メンズクラブ』に発表されたのは、たしか18号ですね。表紙にプリンストンの学生が写っているやつでした。 石津 『メンズクラプ』と提携したというのは、大きかったな。 くろす それはどういうことから始まったんですか。 石津 初めはなんの関係もなかったんだよ。ところが突如僕の前に一人の男が現れたんだ。それが初代編集長の熊井戸さん。『メンズクラブ』と組んで、通販をやるとか、ずいぷん活発だった。 くろす ええ、知ってますよ。5号だったと思うけど、そのときから、巻末に通販が載って、その商品を全部VANが作っていたんですね。そのころ、VANがつくったプランドに「メンズクラブ」というのがありましたが、それが今や貴重品となっているんですよ。石津 僕が一番覚えているのは、浴衣だね。どんなのをやろうかということで、着物のプリントやってるメーカーまで行ったんだ。そしたらたまたま、そこで小さな車のタイヤの跡が目にとまって、これは面白いというんで、 その跡をプリントしたの。 くろす タイヤ浴衣! 石津 それで〃車にひかれた男〃という名前がついたんだ。(笑) アイビー全盛に向けて 石津 『メンズクラブ』も、別にいつまでやろうといった計画はなかったんだ。でも、いくら売れるか分からないから、冒険はしたくない。少なくていいから損はしたくない、ということだった。だから、最小限度は三万部くらいだったかな。 くろす そう、最初は『婦人画報増刊男の服飾読本』と言ってましたね。定期刊行物じやなくて、一年に二回くらい出るだけで。だから、『メンズクラブ』は本当にVANと二人三脚で育ってきたという感じですね。 石津 『男子専科』が当時リーダーシップを持っていたもんだから、何かと比較される。『男子専科』のほうは、こちらのことを「何だ、あの子供の着る服」と言い、こちらは「あんなジジイの着る服」という調子だったが、どちらも質は高かったね。そういえば、『メンズクラブ』は毎号全部売り切れたんだ。というのは、三万五千部くらいのうち、二万五千部くらいをVANが買い取ってた。VANはそれを小売屋さんに買ってもらって、小売屋さんは、それを販促に使っていた。 くろす そうでしたね。VANが何割かを買い取る、その代わりVAN以外の広告を載せないという契約でした。僕らは『メンズクラブ』を商品のひとつとしてシャツやブレザーと同じ扱いで、注文を取っていましたから。あれはいいアイデアでしたね。 石津 読者だって、読んでるわけではない。持ってるだけだったんだ。それがカッコいいという風になっちやった。僕はそれを見て「VANもいけそうだな」と思ったね。 くろす『メンズクラブ』の大判を国際版なんて言ってましたよね。『メンズクラブ』に〃街のアイビーリーガース〃の連載を始めたのが六三年ですが、そのころになると、量的にもまとまってきたなという、一種の手ごたえを 感じはじめましたね。 石津謙介、警視庁に出頭 石津 そういえば、警視庁に呼ばれたことがあったなあ。みゆき族が銀座の街に出てきたとき。彼らが銀座に出てきて、気に入った女の子を見つけると、さっとポーズとってね、まあ、ナンパってやつだね。いわば気取るだけなんだから、これだけでは讐視庁も取り締まりの対象にならない。でも、銀座の商店街のほうから文句が出た。「VANがやらしているんだろう、なんとかしてくれ」と、警視庁から言ってきてね。それで、讐視庁に頼んで、僕の名前の入ったポスターをはらしてもらった。VANから〃アイビー大集合〃という原画を出して。讐視庁がヤマハホールを借り、表向きはVANがやろという形にしてイベントをもった。そうしたら、立ち見が出るほどの盛況でね。それで、最後に僕が出ていって、事情を話して、ああいうことはやめてくれと言ったら、その翌々日くらいからパッタリと来なくなったんだ。警視庁は「なんで暴カ団の親分みたいなまねができるんだ」と、ビックリしちゃった。それからすぐに僕は讐視庁の嘱託になったんだ。功績を認められた。(笑) KENTの時代 くろす Kentを始めたのが66年ですね。 石津 あのころ、なんとなくこれじゃイカンと思ってね。買ってくれるお客の年齢層がどんどん下降してきて、頭が軽くなっていると感じはじめたんだ。それで新しいブランドを作らなければと、Kentを始めたんだけど、まあ、それも難しく考えたわけじゃない。くろす でも、初めは難しかったですね。VANとどこで差別化をするかというのが難しかった。最初のうちは、KentもVANと同じ生地を使っていましたから。小売屋さんでVANとKentのネームを外されて、どっちがどっちだなんて、聞かれたりしましたもの。ボタンダウンのシャツの形を変えろといっても、変えられるものではないでしょう。今のようにポケットにロゴをつけるなんて、思いつかなかったですからね。 石津 VANボーイズ、VANブラザーズ、VANミニと、いろいろやっていったな。どんどんセグメントしていった。Kentは、VANを卒業した人のためのものだったから、 VANの名前はつけなかったけれども。 くろす そういうのも大体は66、7年でしたね。セグメントしていって、サイズだけ違う。形は同じでもね。 石津 そのほうが合理的だと思ったんだ。 くろす 下は3歳くらいから、上は5、60歳までVANのブランドで全部カバーできたわけですからね。あの当時、普通の発想では思いつかないことでしたよ。l型、2型というスーツにしても、色に番号をつけたのにしても、VANが考えついたものですが、みんなまねを始めたでしょう。 石津 そう。みんなVANの発明だと思わないで、イギリスやアメリカのものと思い込んでいたんだろうな。 アイビーのマーケッテイング思想 くろす アイビーはいろんな分野に影響を与えて、マーケットを広げていきましたね。 石津 生活関連商品という発想は、僕にはちゃんとあったんだ。 くろす 思いつきだけでやってたような感じがするけれども、あのころのVANの社内には、僕だけでなく、いろんな発想をするやつがいっばいいましたもの。みんなアメリカかぶれで、アメリカ的なものはなんでもやりたがっていた。 石津 思いつきだけども、一つの思想のなかでの思いつきだったから、まとまったものができたんだな。 くろす 僕らはマーケティングなんて言葉も知らずに、やっていましたから。 石津 コカコーラの宣伝だって、VANのまねをしてたね。〃週に一度はスポーツを〃だったかな。 くろす 素人の集団があれほどのものを作ったんだから、すごい集団だったなと思いますよ。僕らは自分たちでアメリカを作っていたという感じでしたね。 アイビー、トラッドの未来 石津 ところで、これから先のことを見通すと、アイビー、トラッドはなくなりはしないだろうけれど、今までのようなものではないだろうという気がするね。本能的なところ、生理的なレベルでトラッドに対する好みはあるだろうから、なくなることはないと思う。でも、これからは着こなしの時代だね。なにかことさらに新しいものが出てくるということではなくて、いろんな服が混在する時代になって、そのなかにトラッドやアイビーの服もあるということなんだろうね。 くろす しかし、これだけ日本に定着したというのは、やはり日本人のテイストに合っていたんじゃないかと思いますよ。 石津 日本人には一番分かりやすいんだよ。 くろす 日本の風土に完全に溶け込みましたね。現在定番といわれる服はほとんどアイビー、トラッド系ですから。問題はやはり着こなしですね。ポロシャツにしても、チノパンにしても単品として残っていって、それをどう着こなすか、なんでしょうね。日本のユーザーは賢いから、うまくバランスをとっていくでしょう。 日本経済新聞社「永遠のIVY展」プログラムより |
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くろす としゆき服飾評論家。1934年東京都生まれ。 54年慶應義塾大学、55年に長沢節モードセミナーに入学。 在学中は学生バンドとアイビーに熱中し、 穂積和夫氏らとアイビークラブを結成。 両校を卒業後、61年VANに入社。おもにアイビー、トラッドの商品開発およびプロモーション分野を手掛ける。 70年退社し、クロス・アンド・サイモンを設立と同時にダンロップ、リーガルの顧問に就任。 同社解散後はテレビ東京「浅草橋ヤング洋品店」にレギュラー出演。 エッセイストとしても活躍中。 |
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